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 お兄ちゃんは一人しかいない。そりゃそうだ。でも、それはとても深刻な問題に結びつく。お兄ちゃんはあたしのトレーナーであって美羽のトレーナーでもある。そして、次の試合の対戦相手は美羽になるのかもしれないのだ。もしそうなったらお兄ちゃんはあたしと美羽のどっちのセコンドに付く?妹のあたしにつくのが情というものだと思うけれど、美羽には…。
 長椅子に座って両手で頬杖をつきながら思いを巡らせていると、頭に影がかかってきた。亜衣は顔を上げる。
「お兄ちゃん…」
「何してんだ。もう練習終わったんだろ」
 兄のタクロウは立ったままでいる。
「考えごと」
 亜衣は頬杖をついたままタクロウから目を反らして言った。
「おいおい、ここはボクシングジムだぜ。考えごとなら家に帰ってからにしろよ」
 タクロウは呆れ気味に両の掌を天に向けた。
「いいの。ボクシングのことだから」
「なんだ、ボクシングのことか。だったら俺に相談しろよ。水臭ぇじゃねえか。俺は亜衣のトレーナーだろ」
 タクロウは親指を立てて自分に指す。
「プライベートなことだから」
「ボクシングにプライベートもねぇだろ」
 タクロウは、ははっと笑みを浮かべながら言う。
 それがあるんだよお兄ちゃん。亜衣は依然としてタクロウの顔を見ずに心の中で呟いた。
「タクロ~、美羽のスパーが始まるからこっちに来てくれ~」
 会長がリングのある方から声をかけてきた。
「うっす」
 タクロウは会長の方を見て返事するとこちらを向いて、
「気が向いたらいつでも言えよ。俺はお前の兄でもあるんだからよ」
 そう言い残してリングに向かって行った。
 亜衣もリングに目を向けると、美羽とスパーリング相手の女子選手がお互いコーナーに立って備えていた。美羽のスパーリングの相手はわざわざ他のジムから呼び寄せた選手だ。美羽の次の試合の相手がサウスポーということで会長が用意したのだ。まだ四回戦クラスで女子としては異例なことだ。それだけジムが美羽に期待をかけているっていうこと。
 高校生でありながらアマチュアの大会である全日本選手権を優勝した実績を残して美羽は一年前にジムに入門してきた。これまでプロのリングで三戦三勝三KO。アマチュアでの輝かしい実績に見劣りしない立派な結果を残している。そして、次の新人王トーナメント準決勝の試合に勝てば亜衣の対戦相手になる。
 ――――あたしはトレーナーになってくれたお兄ちゃんと一緒にチャンピオンになりたくてボクシングを続けてきた。でも、その夢を適えるには美羽を超えなきゃいけない。そのためにもお兄ちゃんがあたしのセコンドについてくれないと…。
 リングからは美羽のパンチの乾いた音だけが間隔が開くことなく聞こえてくる。亜衣は立ち上がりリングからはもう目を向けずにシャワー室へ向かった。
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小説・あに―いもうと | コメント(0)

「あに―いもうと」第二話

2017/04/09 Sun 03:28

「青コーナー山川ジム所属ー9戦9勝6KOー日本フライ級3位ー秋乃江亜衣~!!」
 リングコールされ亜衣は右腕を上げた。沸き起こる声援に応えるように観客に対して右腕を上げたまま身体をぐるりと向ける。そして最後に赤コーナーへと視線を移した。
 赤コーナーに立つ美羽。亜衣は視線を下げ、彼女の腰に巻かれているチャンピオンベルトを目にして顔を下げた。目的となる物を目にしてもう十分。これ以上は赤コーナーを見ていたくはなかった。
 亜衣は背中を向けて両腕を広げてロープを掴んだ。
「赤コーナー杉原ジム所属―10戦10勝10KOー日本フライ級チャンピオンー志恩美羽~!!」
 リングコールされると盛大な拍手、声援が聞えてきた。その数は明らかに亜衣へのものより多い。
 レフェリーに呼ばれ、亜衣と美羽がリング中央へと向かう。目の前で対峙し、亜衣は美羽の顔を見た。こんなに近い距離で美羽の顔を見るのは初めてだ。
 黒い髪の色のボブカット、雪のように白くてそれでいて頬はほんのり赤みがかった綺麗な肌に薄い唇、切れ長の目。童顔でまだあどけなさを残しながらも艶やかさも備えた美しい顔をしている彼女に熱狂的なファンがつくのも頷ける。
 でも、ファンの数で負けているからって悔しいとは思わない。そんなことはどうでもいいのだ。
 亜衣は美羽の顔を力強い眼差しで見続ける。美羽も亜衣の顔を見ているものの、その瞳からは何の感情も伝わってこない。
 クリムゾンクールドール。そんな呼称を持つ美羽らしいといえば美羽らしい。美羽と試合をした相手の大半が鼻血を噴きながらリングに沈んでいく。そして、一人でリングに立っているその時の美羽の顔には対戦相手の返り血が付いていてそれでも表情を崩さずにいる。それが美羽につけられた呼称の由来だ。それだけ美羽が軸として放つ直線形のパンチである左ジャブと右ストレートが正確に対戦相手の顔面を捉えているっていうこと。
 もちろん、鼻血を出すなんてまっぴらゴメンだ。
 10戦10勝10KO。美羽がとてつもなく強いのは十分に分かっている。でも、勝算なくリングに上がっているわけじゃない。あたしには他の選手にはない武器がある。試合に集中すれば勝てる。試合に集中さえすれば夢だったチャンピオンになれる。
 そう心の中で唱えながら、亜衣は背を向けて青コーナーへ戻っていった。
 余計なことは考えなくていい。あとはゴングが鳴るのを待つだけ。でも、コーナーに着く前につい振り返ってしまった。赤コーナーを。目に入る美羽の背中に手を回すタクロウの姿。それは亜衣が望んでいたもう一つの夢…。

「決勝戦は棄権してもらえるか」
 二人きりの会長室。そこで机の椅子に座り目の前で向き合う杉原会長はそう切り出してきた。亜衣は両拳をプルプルと震えるほどに強く握りしめ、奥歯もぐっと噛み締めた。
「嫌です…。美羽と試合をしないで優劣を付けられるなんて、そんなの絶対嫌です」
「同門同士で試合をさせるわけにはいかない。これはジムの方針なんだ」
 杉原会長は強くそれでいて諭すような落ち着いた口調で言った。
「じゃあジムを辞めます」
 亜衣は反射的にそう答えた。何も考えずに口から出た言葉だったけれど、後悔はなかった。
「本当にそれでいいのか」
 会長の言葉に亜衣は力強く「はい」と答えると「これまでありがとうございました」と頭を下げて部屋を出た。
 ジムを出ようと入り口の扉に向かう途中でタクロウの姿が目に入った。ミットに手を入れようとしていたタクロウはこちらに顔を向ける。いつになく心配そうな眼をしていた。
 亜衣は下を向いてジムの外へ出た。
「待てよ亜衣」
 タクロウの声がして後ろを振り向いた。タクロウは今も心配そうな表情を向けている。
「どこ行くんだよ」
「ねぇ、お兄ちゃんは知ってたんでしょ」
 亜衣は弱々しい目でタクロウの顔を見た。
「あぁ…」
「あたし、ジム辞めたから」
 タクロウが目を大きく見開いた。
「おいっ、早まるなよ。せっかく兄妹でボクシングがやれてんだろ」
 亜衣の表情が無機質になり、
「じゃあたしと一緒にジムを辞めてよ」
 と言った。
「そんなこと出来るわけねぇだろ。俺は他の奴のトレーナーもしてんだぜ」
「そうだよね。あたしはお兄ちゃんの選手の一人だもんね」
 タクロウは下を向き、それからまた亜衣の顔を見た。
「それでも亜衣は俺の大事な選手だ」
 亜衣は目を瞑り下を見る。そして、背中を向けて、
「ありがとうお兄ちゃん。」
 そう言って目を開けた。
「あたしはチャンピオンになりたいからジムを出るだけだから」
「別に美羽と一緒でもチャンピオンにはなれるだろ。世界のベルトは四つもあるんだ」
「それじゃダメなの」
 亜衣は首を横に振る。
「美羽に勝たなきゃ一番強いって思えないから」
 亜衣はそう言ってタクロウに顔を向けた。
「だからジムを出る。じゃあねお兄ちゃん」
 亜衣は精一杯笑顔を作ってタクロウの返事を待たずにその場から離れていった。そうじゃないと目元に溜まる涙を隠しれなかった。

「今夜のダイナマイトボクシングのメインイベント日本女子フライ級タイトルマッチ、まもなくゴングを迎えます。10戦10勝10KOとパーフェクトレコードを更新中のチャンピオン志音美羽に対するは挑戦者の秋乃江亜衣。秋乃江もここ二戦は連続1RKOと勢いでは負けていません。どういった結末を迎えるのか、目が離せない一戦です」
「注目すべきは秋乃江選手のデンプシーロールでしょう。彼女のデンプシーロールにチャンピオンがどう対応するのか。秋乃江選手が使うようになったここ二戦では対戦相手がまったく対応出来てませんでしたからねぇ。秋乃江選手の大番狂わせも十分にあると思いますよ」

 実況席、観客席の間で試合に対する注目が高まる中、リングの上の主役の一人である亜衣は青コーナーへと戻った。
「第1Rは様子を見るか?」
 そう話しかけてきた山川会長に亜衣は笑みを浮かべた。
「会長、何言ってるんですか。無敵のデンプシーロールですよ。1Rからいきますよ」
 山川会長は亜衣の顔をじっと見る。それから肩に手を乗せた。
「分かった、お前に任せるよ」
 セコンドについている河原さんからマウスピースを渡されてくわえた亜衣は右手ではまり具合を調整しながら言った。
「会長は心配しすぎですよ」
 第1R開始のゴングが鳴り、亜衣はコーナーを飛び出していった。
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「あに―いもうと」第3話

2017/04/10 Mon 23:54

 ゴングの音が鳴ると同時に亜衣はダッシュして距離を詰めにいく。直線的に向かっていくが、両足で軽やかにステップを刻む美羽のパンチの射程距離に近づくや腰をかがめ上半身を大きく左斜め下に沈ませた。亜衣の上半身は弧の字を描き起き上がっていく。それから今度は右斜めへと沈んでいった。そして、弧を描きまた上へ。亜衣は横向きにした8の字の軌道を速いスピードで描き続けながら美羽の元へ距離を縮めていく。ここからフックの射程距離に入り、横8の字の軌道を描きながら左右のフックを打ち続ければデンプシーロールの完成だ。
 美羽からはパンチが一向に飛んでこない。安々とフックの射程距離まで近づけた亜衣だったがパンチを打とうとした直前で美羽が左に大きくステップして逃げられた。
 距離が出来て仕切り直しになった二人だが、亜衣はすぐさま再度デンプシーロールを使って距離を詰めに出た。
 ぜんぜんかまわない。技が破られたわけじゃないんだから。
 しかし、今度は美羽も距離を詰めに出て、体がぶつかり合いクリンチで体を捕まれた。
 レフェリーに体を離され、再び見つめ合う亜衣と美羽。美羽はステップを刻み一定の距離を取るだけで一向にパンチを打ってこない。そんな美羽の消極的なファイトに亜衣はイラっときた。
「そのまま逃げてちゃボクシングにならないよ」
 亜衣が挑発したものの、美羽は気にする素振りをみせずに無表情のまま攻めずにいる。
「あっそっ。じゃあこっちからいくから」
 そう言い放ち、亜衣は再びダッシュして向かっていった。
 しかし、亜衣は消極的な戦い方をする美羽を捉えることが出来ないまま1R終了のゴングが鳴った。
 青コーナーに戻った亜衣は、河原さんが用意したスツールの上に腰を乗せた。
「相手、メチャメチャ逃げ腰じゃないですか。びびってんすかねぇ」
 河原さんが呆れたように言う。
「いや、カウンター狙いかもしれないな。序盤のRは捨てて様子見か」
 山川会長が顎に右手を当てて言った。
「えっ、じゃああんまりデンプシーみせない方がいいんじゃないっすか」
 驚き気味に言う河原さんに対して、
「心配ないです。デンプシーロールにカウンターは無意味です。前の試合でそれは証明しましたから」
 亜衣は笑みを浮かべて言った。続けて、
「ですよね会長」
 と言って山川会長に顔を向けた。山川会長は少し考えてから、
「そうだな」
 と頷いた。
「ただ後半のRになると慣れてくるかもしれない。早いRで仕留めないと危ないかもしれないな」
「大丈夫です。相手は逃げ回ってばかりですから早く仕留めてみせます」
「くれぐれも雑に攻めていくなよ」
「はい」
 そう答えると、インターバル終了を告げるブザーが鳴り、亜衣はスツールから立ち上がった。

「美羽、どうだデンプシーロールは?」
 タクロウが青コーナーでスツールに座る美羽の身体についている汗をタオルで拭きながら聞いた。
「大丈夫です。もうタイミングは掴めましたから」
 美羽は表情を変えずに言う。
「そうか、次のRいけそうか?」
 美羽は「はい」と返事して小さく頷いた。
「じゃあ、いけそうならやってみろ。一度でも捕まっちまうと厄介だからなデンプシーは」
「分かりました」
 そう答えて美羽はスツールから立ち上がった。渡されたマウスピースを口にくわえ右手で口元を調整すると、タクロウの方を見た。
「でもいいんですか。妹さん、下手したら再起不能になりますよ」
 美羽は表情一つ変えずに言った。
「仕方ねぇだろ、そうでもしねぇと止められねえ技なんだから」
 タクロウは苦虫を嚙み殺したような表情で言った。
「分かりました」
 美羽は感情のみえない声でそう言うと、第2R開始のゴングの音と同時にコーナーを出ていった。

 亜衣がデンプシーロールの練習をするようになったのは、山川ジムに移籍してからだった。デンプシーロールはタクロウが得意としていた技だった。タクロウがこの技でKOを量産する姿に亜衣は魅了された。タクロウがトレーナーになってからは教えて欲しいと何度もお願いしたけれど、その度にはっきりと断られた。この技は使えねぇの一点張りだった。
 でも、ジムを移籍してタクロウから止められることがなくなり、亜衣は必死になってデンプシーロールを練習した。美羽に勝つにはこの技しかないと思った。そして、練習を始めてから一年が経ち、亜衣はデンプシーロールを使えるようになった。
 試合で使ってみると、対戦相手は全く対応出来ずにたった30秒でKO勝ち出来た。あまりの威力に人生でこの時ほど興奮した覚えは他にない。
 その次の対戦相手は対策を練ってきていた。デンプシーロールにカウンターパンチを合わせてきたのだ。でも、パンチが当たったのは亜衣の方だった。その一発で対戦相手はキャンバスに倒れ、カウント内に立ち上がることはなかった。
 山川会長の説明曰く、デンプシーロールの振り子の動きが大きくて相手の死角に移るからカウンターを当てるのは難しいとのことだった。
 つまりはデンプシーロールに死角はないということだ。少なくとも前半のRのうちにカウンターを当てようとするのは無謀な行為。相手が美羽だからって変わることはない。
 このRも距離を取って一向に攻めてこない美羽に対し、亜衣は睨めっこを止めて一気に前へ出た。
 少なくとも序盤にカウンターは打ってこない。デンプシーロールにカウンターを合わせづらいのは美羽だって分かってるはずだ。だから早いうちに倒さなきゃ。
 ダッシュして向かう亜衣は、上半身を軽く揺らし続けながらその場に立つ美羽の異変に気付いた。両腕を上げてファイティングポーズを取る美羽の身体から透明な繭の糸のようなものが無数に上がっていくのが見えたのだ。それは闘志とでも言うべきものなのだろうか。亜衣はボクシングのリングの上で初めて闘う者が放つオーラを感じ取り、身体が硬直していくのを感じた。
 大丈夫だからと亜衣は自分に言い聞かす。デンプシーロールに移行した時、硬直は取れていて周囲の音が聞えなくなる感覚に陥った。恐怖を乗り越えて得た研ぎ澄まされた状態。そして、亜衣は美羽が逃げないことを予感した。その通りに美羽が亜衣のデンプシーロールに応じていく。亜衣の左フックに対して美羽が右のパンチを打ち放つ。
 あたしの勝ちだ。
 亜衣がそう確信した次の瞬間、凄まじい打撃音が鳴り響いた。
 醜くひしゃげた顔面、そして対戦相手の胸元を赤く染め上げる大量の鼻血。あまりの鮮烈な光景に場内が静まり返る。
 悲鳴を上げたのは、亜衣の顔面だった。亜衣の両腕がだらりと下がる。もう戦況が理解出来ていないのか、その顔は頬も口元も弛緩してだらしのない笑みを浮かべていた。マウスピースを吐き出すと、両腕を下げたまま気持ち良さそうな表情で後ろに崩れ落ちていく。一方の美羽は、壊れたように無防備にキャンバスに沈み落ちていく亜衣の姿を赤く染まった右の青いグローブをゆっくりと引きながら見つめていた。
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「あに―いもうと」第4話

2017/04/14 Fri 20:02

「ダウン!!」
 レフェリーがダウンを宣告し、カウントを数え始めた。しかし、キャンバスに仰向けで大の字に倒れ微動だにしない亜衣の姿にカウントはもはや不要のように思われた。それでもカウントが数えられているのは試合がまだ第2Rに過ぎずこのままだと早く終わりすぎてしまうから。この状況を見た者の大半がそう思うほどに亜衣の倒れ方は壮絶だった。そして、誰よりもそう強く思っているのがタクロウだった。
 顔面は真っ赤に染め上がりキャンバスに大の字に倒れている亜衣の凄惨な姿を見て、タクロウは六年前の自分が挑戦した世界タイトルマッチを思い起こさずにはいられなかった。
 あの試合でタクロウはわずか2RでKO負けした。合わせられるはずがないと思っていたデンプシーロールにカウンターを打ち込まれたのだ。その一発で試合は終わった。そして、その一発でタクロウのボクサー生命も絶たれた。顎を複雑骨折し完治は不可能だった。デンプシーロールは威力が凄まじい分、カウンターで合わせられた時の威力も桁違いになっていた。無敵だと思っていたパンチは諸刃の剣だった。
 後で関係者から聞いて分かった話だが、チャンピオンはデンプシーロール対策として世界中からデンプシーロールの使い手を探した。そして見つけ、スパーリングパートナーとして雇っていたのだ。決まった動きをする分、慣れてしまえばむしろカウンターを合わせやすい。それは亜衣との試合を控えてタクロウ自らが美羽のスパーリングパートナーを務めたことでも改めて分かった。
 もし俺という存在がなかったら亜衣は世界チャンピオンにもなれていたかもしれない。デンプシーロールを打てる選手なんて早々いない。ましてスパーリングパートナーに金をかけられない女子ならなおさらだ。俺がトレーナーをしていなければ…。
 タクロウはリング上の悲しき結末に、力無く俯いた。
 亜衣のボクサー生命もこれで絶たれたかもしれない。俺のせいで…俺のせいで亜衣は…
 場内が急に沸き起こり、タクロウが顔を上げた。
 リングの上では、立ち上がりプルプルと膝を震わせながらもファイティングポーズを取っている亜衣の姿があった。
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「あに―いもうと」第5話

2017/04/16 Sun 09:54

 デンプシーロールが破られた…
 カウントが8を数え上げられたところで立ち上がった亜衣はロープに寄りかかり目がとろんとし弱々しい表情で天を仰ぐ。自分が拠りどころにしていた技を打ち破られて呆然自失していた。得意の技が美羽に通用しなかった失望感とこの先どう闘えばいいのか分からない絶望感が広がっていて気持ちがどうにもならなくなっている。それでも立ち上がれたのは、タクロウの前でノックアウトされてキャンバスに倒れている姿を見せたくない意地からだった。
 レフェリーの問いかけに亜衣は頷き試合が再開された。
 負けられない…とにかくこのRを逃げきらなきゃ…。
美羽がダッシュして距離を詰めラッシュを仕掛けてきた。美羽のパンチの猛攻に亜衣は両腕を頭の位置まで上げて徹底したガードで凌ごうとする。
 少しでも気を許したらガードが弾かれそうな強烈なパンチの連打。このままじゃガードがもたない。亜衣は一か八かで前に出て美羽の背中に両腕を回して抱きついた。クリンチに成功して、荒い息を吐きながら美羽に体を預けた。クリンチをほどかれないように両腕に精一杯力を入れる。
 さっきまで揶揄していた美羽の逃げ腰の闘い方を今は自分がしている。みっともないと思いながらも亜衣はなりふりかまっていられなかった。この場をなんとかしなきゃ…。
「ブレイク!」
 レフェリーが割って入り、身体を美羽から離された。
 再び出来た距離を美羽はすぐにダッシュして亜衣にパンチの連打を畳みかけていく。亜衣はガードで凌ぐものの、ロープまで追いやられて、美羽のパンチの圧力をもろに受けるようになった。ガードする両腕が次第に麻痺していき、肘より先がなくなってしまったんじゃないかというような異様な感覚に陥る。
 これ以上はまずい…。
 亜衣は腰を沈めて自分からその場に尻もちをついた。
 レフェリーがダウンを宣告する。亜衣の不自然な倒れ方に観客席からブーイングが飛んだ。
「汚ねぇぞ!!」
「正々堂々と闘え!!」
 観客から野次まで受けて、亜衣は尻もちをついた体勢で悔しさを噛み締めながら、カウントいっぱいまで休むんだと自分に言い聞かした。
 亜衣はカウント8を数えられたところで立ち上がりファイティングポーズを取った。少しの時間休めたもののそれでもまだ体がダメージで思うように動けそうになかった。
 なんとかしなきゃ…。
 その場に立ったまま動けずにいる亜衣の元へまた美羽がダッシュして距離を詰めにきた。亜衣はとっさに両腕を上げてガードをとる。結局のところ、やれることはガードで凌ぐくらいしかなかった。
 それでもここを凌ぎきれば…。そう願う亜衣のお腹に強烈な衝撃が走る。美羽のアッパーカットがお腹に突き刺さり、亜衣の体がくの字に折れ曲がる。
「がはぁっ!!」
 亜衣の口から苦悶の声が漏れた。
 膝が折れ曲がり美羽のへその位置まで下がった亜衣の顔面にさらにパンチが襲いかかる。美羽の右のアッパーカット。パンチのダメージで目が上を向いている亜衣にそのパンチはまったく見えていなかった。
 カーン!!
 第2R終了のゴングが鳴った。
 亜衣の顎の手前で美羽のパンチは止まっていた。目の焦点が定まらずに呆然とした表情で固まっている亜衣の顔から美羽が右拳を引き、一人先に赤コーナーへと戻っていく。
 ややあって、遠ざかっていく美羽の背中を認識した亜衣も重い足取りで青コーナーへ戻った。
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「あに―いもうと」第6話

2017/04/23 Sun 23:12

 青コーナーに戻った亜衣は、河原が用意したスツールに倒れかかるように腰を落として座った。
「亜衣さん、大丈夫?」
 河原の呼びかけに亜衣は首が垂れ下がり下を向いたまま反応出来ずにいる。
「これ以上は無理だな…」
 山川会長がそう言って踵を返してレフェリーの方へ向かっていく。亜衣は右手で山川会長の腕を掴んだ。顔を上げて、
「待って…会長…あたし、まだ闘える」
 亜衣は弱々しい目で懇願した。
「デンプシーロールが破られたんだ。勝ち目のない試合をさせるわけにはいかない」
「一度ダメだっただけです。次はきっと…」
 そうは言うものの亜衣もデンプシーロールを当てられる自信はなかった。次どうなるのかは分からない。でも、このまま終われない。
 山川会長は首を横に振った。
「あれは偶然じゃない。狙って打ってきたものだ。お前の兄がセコンドについているんだ。デンプシーロールの弱点だって分かっていて対策してくることは予測出来た。それなのに亜衣を無策のままリングに上げてしまった。これは私の責任だ」
 山川会長はそう言って頭を下げた。
「まだ次がある。この試合で亜衣のボクサーの生命を終らせるわけにはいかない。悔しいのは分かるが棄権でいいな」
 亜衣の表情が固まった。前のジムの会長から棄権を命じられた時の記憶が思い出される。もう美羽の前で棄権なんて絶対イヤ…。
「あたしはまだ闘えます。立ち上がったんだからまだ闘い続けたいです!」
 亜衣は弱りきった身体から振り絞るように声を強く出した。山川会長は亜衣の顔をじっと見続ける。
「亜衣さん、気持ちは分かるけど、デンプシーロールが通用しないんじゃ闘いようがないよ」
 分かってる…でも、このままじゃ終われないの。
 亜衣は心の中で首を横に振る。
「いや、手がないことはない」
「えっ…?」
 山川会長の思いもしなかった言葉に亜衣は声を漏らす。
「志恩はカウンターを打つ前に上半身を後ろ気味にしていた。あれは死角に入るデンプシーロールを視界に捉えるために視野を広げたんだろうな」
 山川会長が上半身を仰け反らせるポーズを取って身振り手振りで説明する。
「コーナーポストに追い詰めたら上体を後ろにするスペースはなくなる」
 閉ざされた希望が見えてきたように感じられた。亜衣は思わず言葉が出ていた。
「それって…」
「あぁ、カウンターは打てないってことだ」
 亜衣は両拳をぐっと握りしめた。
「山川会長っ」
「手があるのに隠していてすまなかった。亜衣を無事にリングから降ろすのが私の務めだ。でも、亜衣の覚悟を知って、私も覚悟を決めることにしたよ」
「会長っあたし、絶対勝ちますから」
 亜衣はまだ苦しみが残っている顔にたどたどしい笑みを作った。
 第3R開始のゴングが鳴った。
ダメージはまだまだ身体に残っていて立っているだけで精一杯だった。でも、このRもガードで凌ぐつもりはない。前に出て美羽をコーナーポストまで後退させる。亜衣は迷わずに力を振り絞って美羽の元へダッシュして向かっていった。上半身を左右に振るウィービングを交えながらのダッシュ。デンプシーロールだけでなくウィービングそのものを亜衣は得意としている。スピードは落ちていない。デンプシーロールがなくたっていける。
 美羽が左ジャブを打つのを読み取り、亜衣は上半身を左に傾けていく。かわせたと思った。しかし――――。
 バシィッ!!
 美羽の左ジャブが亜衣の顔面を捉え、弾き飛ばした。
 亜衣の顔から鼻血がたらんと垂れ落ちていく。口が開けっ放しになり呆然としたまま、距離を取り離れていく美羽の姿を見ていた。 
 避けれたと思ったのにパンチの軌道が途中で変わった。あんなパンチどうかわせっていうの――――。
 デンプシーロールなら…。そんな思いが頭をよぎるもののすぐに打ち消した。デンプシーロールに頼っちゃダメ。左ジャブをかわすのが難しいなら一発食らってでもかまわず前に出ていくだけ。
 亜衣は意を決して再びダッシュして距離を詰めに出る。
 美羽の左ジャブに亜衣はウィービングで上半身を左に傾ける。美羽の左ジャブの軌道が変わり亜衣の顔面を捉えた。当たる直前に歯を思いっきり食いしばっていた亜衣だったが、予想以上のダメージに足が止まり棒立ちになる。その隙を美羽は見逃さなかった。美羽が左ジャブを放つ。その左ジャブはひねりが格段に増していた。ホーミングからスクリューへ。美羽の左ジャブの質が変わっていく。
 ズドォォッ!!
 ジャブとは思えない重たい打撃音が響き渡った。その一発の左ジャブで亜衣の顔面が後ろへ大きく仰け反り、目が飛んでしまっていた。スクリュージャブ。マスコミの間でそうよばれている美羽にしか打てない必殺の左のジャブがマシンガンのように連続して放たれた。
 ズドォッ!!ズドォッ!!ズドォッ!!
 鉛が当たったかのような鈍い音、キャンバスに飛び散る霧状の血。亜衣の顔面が右に左に弾け飛び、リングの上が凄惨な場と化していく。左ジャブしか放っていない美羽の前になすすべもなく打たれ続ける亜衣。可愛らしかった顔は瞬く間にパンパンに腫れ上がり、おびただしい量の鼻血で自身の白いスポーツブラとキャンバスまでも無数の赤いシミが出来上がっていった。どんなに打たれようと攻め続ける気持ちでいた亜衣はパンチを打つどころか足すらまったくに前に出なくなり、棒立ち状態となり美羽の左ジャブを浴び続けるその様はチャンピオンのサンドバッグとしか言いようがなかった。
 美羽の一方的な攻撃が続く中、タクロウから残り三十秒を知らせる声が上がった。美羽はその声が起きても変わらずに左ジャブで亜衣の顔面を殴り続けた。多彩な確度から亜衣の顔面を打ち続け、さながらダンスでも踊らせているかのように挑戦者の身体を右に左に吹き飛ばす。チャンピオンの一発のスクリュージャブから始まったこの非情な光景は、1分以上にわたって続き、そして第3Rが残り僅かとなったその時、チャンピオンの右のパンチで終焉を迎えた。
 グシャッッ!!
 重く鈍い音が響き渡り、立て続けに起きていたジャブの音が途絶えた。亜衣の顔面に深々と突き刺さった美羽の右ストレート。
「ぶふぅっ!!」
 亜衣がマウスピースを吐き出して後ろに崩れ落ちていく。
「チャンピオン、完璧な攻撃です!!第3Rの残り時間を計算したかのようにフィニッシュブローを叩き込みました!!秋乃上、完全にグロッギー。これはもう立てないか!!」
 実況席でアナウンサーが興奮気味に中継し、観客席からは大歓声が上がった。
 完璧すぎるチャンピオンのフィニッシュに場内が熱狂する。鮮烈なダウンシーン、そしてチャンピオンの圧倒的な強さを観て満足した多くの観客がテンカウントを数えられるのを待ち続けた。しかし、カウントは9で止まった。また立ち上がってきた亜衣。場内がざわついた。
「まだ終われないの…」
 レフェリーの前でファイティングポーズを取る亜衣は、狭まった視界の中に映る美羽の姿を見ながら、消え入りそうな声でそう呟いた。
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「あに―いもうと」第7話

2017/05/07 Sun 17:07

 レフェリーが試合再開を告げ、その直後に第3R終了のゴングの音が鳴り響いた。もう終わったと思われた試合は第4Rへと続いていく。混迷したリングを反映するようにインターバルに突入しても場内のどよめきはおさまらない。
「まだ続けさせるのかよ。もう終わりでいいじゃねぇか…」
 血の滴をキャンバスに落としながらよろよろと青コーナーに帰っていく亜衣の姿を見て、タクロウは顔を歪めながら言葉を漏らした。
「マウスピース、お願いしていいですか?」
 美羽の言葉でタクロウははっと我に返る。スツールに座っている美羽からマウスピースを目の前に出され、タクロウは、
「えっあぁ…わりぃ…」
 と動揺しながら言った。マウスピースを手にして水で洗う。それが終わると、瓶に入った水を美羽の口に含ませた。うがいをして口の中に含んだ水を容器に吐き終えた美羽はこちらを見て、
「亜衣さん、もう気付いているかもしれません。この闘い方の唯一の欠点に」
 と言った。
「希望がある。そういう眼をしていたから」
「そうか、コーナーに気付いたか…。長引かせると何があるか分からないな…」
「次のRで決めてみせます」
「そうか…無理はするなよ」
「ええ…無理はしません。タクロウさんがそう望むなら」
 美羽はそう言うと立ち上がり、右手でマウスピースを求めた。一瞬間が出来て渡されたマウスピースを口に入れ、両腕を下げながら第4R開始のゴングを待った。

 ふらついた足取りで青コーナーに戻り、倒れ落ちるようにスツールに座る亜衣。たったの1Rで原型を留めてないほどに醜悪に変形した亜衣の顔を見た河原は青ざめた表情をして、
「会長、これ以上は流石に…」
 と言って山川会長の顔を見た。
「まだ終わりはダメですよ」
 亜衣は頭を持ち上げ、表情が反映されなくなったゴツゴツした顔にかすかに分かる笑みを浮かべた。
「デンプシーロールが破られたわけじゃないんですから」
「分かった。ただし次危なくなったら止める。いいな」
 山川会長の言葉に亜衣は返事をせず、わずかばかり首を縦に振った。
 第4R開始のゴングが鳴った。
 亜衣は体を左右に振りながら前進を進める。前のラウンドでKOされる寸前に陥りながらもなおも自分のボクシングを愚直なまでに貫く。しかし、得意のウィービングはもはや見る影もないほどスピードが落ちていた。
 美羽のパンチの射程距離に踏み入った瞬間、亜衣の顔面が四方八方へと乱れ飛んでいった。美羽のホーミングする左ジャブの速射砲。
 そして、美羽の左ジャブがスクリューへと変わる。リングに響き渡る重たい打撃の音。
 血飛沫が舞い散った。ひしゃげた亜衣の顔面の鼻と口から血が噴き出ていく。さらにもう一発美羽のスクリュージャブが亜衣の顔面に打ち込まれた。
「ぶふぅっ!!」
 亜衣が血反吐を噴き上げて、身体がぷるぷると震え硬直する。その隙を逃さずに美羽のスクリュージャブが連続して放たれる。
 ズドォッ!!ズドォッ!!ズドォッ!!
 亜衣の顔面がパンチングボールのように弾き飛ばされていく。徐々に下がっていく亜衣の両腕、顔を差し出すように前のめりになっていく上半身。パンチを打ってくださいとばかりに無防備になっていく亜衣は、美羽にパンチを打たれるがままであった。
 一方的な時間が過ぎていく。ボクシングすら出来ずにパンチを浴び続ける亜衣。しかし、何発パンチを浴びようとも亜衣は倒れない。亜衣の瞳はまだ光を失っていなかった。
 ズドォォッ!!
 美羽に右ストレートを打ち抜かれ、亜衣の身体が後ろへ下がっていく。それでも、亜衣は数歩下がったところで踏ん張った。

 美羽に…美羽に負けるわけにはいかない…。お兄ちゃんの夢はあたしが受け継いだんだから…。


「ふ~ん、ここがいつもお兄ちゃんが練習してる場所なんだ」

「あぁっ…つか、マジお前もボクシングするのか?」

「ボクシングっていうかダイエット目的だけどね」

「何その顔。あたしがいたらイヤなの?」

「なんかはじぃからよ。妹がジムにいるってのも」

「自意識過剰だよ。そんなの誰も気にしないって」
 
 悪態ついてるけどお兄ちゃんはよくランチに誘ってくれる。家の近くにある喫茶店。一人でケーキ食べるのもはずいからよって言いながら。あたしはお兄ちゃんがいると安心する。守られてるみたいで。


 初めての練習はお兄ちゃんが見てくれた。お兄ちゃんの手本を真似て左ジャブを打つ。

「お兄ちゃんどう、こんな感じ?」

「良いパンチじゃん。センスあるかもしれねぇな俺に似て」

「何自分も褒めてんの」

「良いんだよ、俺は結果残してんだから」

「あたしもプロ目指しちゃおっかなぁ」

「やめとけ。痛え思いばっかししてファイトマネーは安い。割に合わねぇぞ」

「じゃあなんでお兄ちゃんはボクシング続けてるの?」

「んっ…まぁ、こんな俺を周りが褒めてくれるのはボクシングくらいだからな」

 亜衣は「そっか」と言ってにこっと笑った。
「あたしもお兄ちゃんに初めて褒められた。やっぱりプロ目指そうかなっ」

「じゃあもう褒めねえ」

「なにそれ、いじわる。まぁいいけどね。プロになるわけないし。痛いのイヤだから」

 本当はプロになりたい気持ちが心の中に半分くらいあった。お兄ちゃんの闘ってる姿に魅せられていたから。


 世界戦で負けて入院したお兄ちゃんが退院する日、あたしは病院まで出迎えに行った。

「せっかく観に来てくれたのにみっともねえ姿見せちまったな…」

「うぅん…そんなことない。ずっと近くで見てたから。お兄ちゃんが誰よりも練習してた姿」

「そうか…。そう言ってくれると少しは気持ちも楽になるわ。これで最後だからな」

「最後?」

「あぁ、顎やっちまってな。もうリングに上がるのは無理だって医者から言われた」

「そうなんだ…」

 今にも泣きそうな顔をして空を見上げるお兄ちゃん。あたしは黙ってお兄ちゃんの横顔を見つめていた。二人で無言のまま歩く中であたしは心の中で誓った。
 
 あたしはプロボクサーになる。そして、お兄ちゃんの夢をあたしが果たすから。

 立ち尽くす亜衣の顔面に美羽のスクリュージャブが一発、二発と当たった。亜衣は下がるどころかパンチを食らいながらも前に出ていく。美羽がこのラウンド初めて後ろへ下がった。美羽が何度スクリュージャブをヒットさせても亜衣は前進を止めない。
 コーナーポストが近づき美羽が右に逃げようとしたところを亜衣は左腕を伸ばして逃げ道を塞いだ。足が止まった美羽のお腹に亜衣はその左腕で攻撃する。美羽の身体が後ろへ吹き飛んだ。ガードの上からとはいえ威力は十分。美羽の身体がコーナーポストに当たった。
 ずっと欲していた状況―――。亜衣が上半身を横8の字に回転させる。デンプシーロールで美羽の元へ向かっていった。美羽からパンチは出ない。亜衣が左のフックをガードの上から当てた。激しい衝突に美羽の体が揺れ汗が飛び散った。亜衣がデンプシーロールの動きから連続してフックを放っていく。ガードでクリーンヒットを避けているもののコーナーポストに釘付けにされる美羽。亀のようにガードを固めながら必死に耐え凌ぐ。
「美羽!!逃げろ!!コーナーから早く出ろ!!」
 美羽の後ろからタクロウの声が聞えた。
 亜衣はかまわずにパンチを打ち続ける。段々と美羽のガードの隙間が大きくなっていく。
 あと少し、あと少し…。
 呼吸が激しく乱れながらも亜衣は止めずにパンチを打ち続けた。そして、右のフックでついに美羽のガードが上に弾き飛んだ。もう一発左のフックを放つ亜衣。しかし、美羽が抱きかかるように体を寄せ両腕を亜衣の背中に回した。両腕で掴まれた亜衣は必死になってクリンチをほどこうとした。
 もう少し…もう少しなんだから…。
 でも、亜衣の身体は口から息が苦しそうに漏れるばかりで両腕はもう思うように動かなかった。体力が底をつきぷるぷると震えるだけの亜衣の両腕に対して美羽の両腕のフックする力がさらに増す。美羽が力強く二人の身体を反転させ、コーナーポストを背にするのが亜衣へと変わった。
 美羽が亜衣の身体を滅多打ちする。
「ぶへぇっぶほぉっぶはぁっぶふぅっ」
 サンドバッグのように打たれ、亜衣は痛々しい声を漏らし続ける。
 美羽のパンチを浴びるたび、悔しい思いに駆られた。どうしても勝ちたい相手に一方的に殴られるもどかしい現実。もうどうにもならない失望感…。
 悔しさで胸の中も苦しみを覚えながら亜衣は美羽のパンチの連打で激しく顔面が吹き飛ばされ続けた。顔面はさらに醜く変形していき、血や汗が霧雨のように舞い散っていく。
「すごい!!志恩の物凄いラッシュ!!秋乃江、完全にサンドバッグ状態です!!」
リングの上は大歓声が地鳴りのように響き続けていた。
 この場が大きな熱に包まれる中で一人だけ自身の無力さを味わい続ける孤独。コーナーポストを背にして逃げ場を絶たれた状況で、寂しさと虚しさまでも亜衣の心の中で広がっていく。
「もういいだろ!!試合を止めろ!!」
 絶叫する声が後ろから聞こえた。それはずっと欲していた人の声。
 お兄ちゃん…あたしは…。
 苦痛に駆られながらまどろむ意識の中で亜衣はその声の心地よさに溺れていた。苦しみしかない中でその声の心地よさに救いを求めもう試合のことも考えられなくなっていた。
 試合は終わりを迎えようとしていた。ただただ自身に送られた声に気持ちを向ける亜衣と亜衣の変化を察知しとどめの一撃に移行する美羽。
 下から空を切り裂く音が起きた。次の瞬間、亜衣の顎に凄まじい衝撃が打ち込まれた。
 グワアシャッ!!
 天に向かって伸び上がる美羽の右アッパーカット。亜衣の両足が宙に浮き上がった。マウスピースが血飛沫と共に高々と舞い上がり、リングの外へと落ちた。亜衣が前に倒れ落ちていき美羽の胸元に顔を埋める。ずり落ちるように亜衣はキャンバスに沈み落ちた。顔面からキャンバスに倒れ、そして身体が反転して仰向けになった。
「ダウン!!」
 レフェリーがダウンを宣告し、美羽をニュートラルコーナーに戻した。カウントを合図に場内の熱狂は一段と高まっていく。
 タクロウが側にいる青コーナー付近で仰向けで倒れたまままったく動けずにいる亜衣。身体を照らす照明の光が飛びかけている意識をさらに弱らせる。
 お兄ちゃん…。お兄ちゃんがあたしに…。あたしは…あたしはまだ…闘える…。
 亜衣が恍惚とした表情を浮かべた。しかし、握られていた両拳は力無く開かれていく。亜衣の上半身がぷるぷると痙攣を始めた。
「ナインッテン!!」
 レフェリーがテンカウントを数え上げ、試合終了のゴングが鳴り響いた。
「試合終了です!!勢いのある挑戦者でもチャンピオン志恩には全く歯が立ちませんでした!!志恩、圧倒的な強さで秋乃江にKO勝利です!!」
 アナウンサーが大声で実況を続け、観客からは大きな声援と拍手が飛び交う。
 場内の熱狂が最高潮に達する中、レフェリーが勝者の名前を告げて美羽の右腕を高々と上げた。試合の勝ち名乗りを受けても観客から祝福の声援を受けても、美羽は表情をまったく変えずにいる。一方の亜衣は目と口元が緩まっただらしのない表情をしている。それはパンチのダメージに悶えながらもどこか充たされているようでもあった。
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「あに―いもうと」最終話

2017/05/19 Fri 20:15

  美羽とのタイトルマッチが終わって控室に戻った後もダメージで一人では立ち上がれず亜衣は病院へ向かった。翌日の検査では特に異常は見当たらず、普通に行動出来るまでに回復したが念のために四日間入院することになった。
 そして、退院の日。
 病院の入り口を出ると思いもしない顔を目にした。
「お兄ちゃん…」
「おう…今日が退院の日だって聞いてな」
 タクロウが目を合わさずに言った。
「良いアンテナしてるね、お兄ちゃん。誰から聞いたの?」
 亜衣は頬を緩ませる。
「院長先生だよ」
「なぁんだ。こそこそしないで直接あたしに聞いてくれれば良かったのに」
「聞くと絶対行かなきゃいかなくなるだろ。おれも行こうかぎりぎりまで迷ってたからな」
 亜衣は答えずに頬を緩ませながらタクロウの顔を見続ける。
「それにしてもお前のジムの人は冷たいな。来たのは俺だけじゃねぇか」
 亜衣はくすっと笑う。
「何だよ」
「お兄ちゃんが入院した時も迎えに来たのあたしだけだったよ」
 タクロウが頬を人差し指で搔いて右斜め上に目を向けた。
「そうだっけか…」
 タクロウは目線を戻して、
「だからか、今日行った方が良いよなって思ったのは」
 と言った。
「身体の方はどうなんだよ」
「もう大丈夫。今日からでも練習再開出来るくらい」
「そっか…。でもな、デンプシーロールはもう使うなよ」
 タクロウの表情が真顔になる。
「何で?」
「次は入院だけじゃ済まねぇかもしれねぇ」
「でも、お兄ちゃん、美羽に必死になって指示出してたでしょ。コーナーから出ろって」
「いや、まぁ…そうだったっけ?」
「そうだよ。それだけ脅威な技ってことでしょ」
「それでも、リスクが高すぎる。コーナー限定の技じゃな…」
「今はそうかもしれないけど…でも、あたしはもっとこの技を高めたい」
 亜衣は右拳を握ってみせた。
「あたしには次があったから…。だからね、お兄ちゃんの得意技だったこの技をもっともっとすごい技にするから」
 亜衣はそう言ってタクロウに笑顔を向けた。
「それで、いつかこの技で世界のベルトを獲ってみせるから」
 タクロウの顔が破願する。
「ははは…。そうか…そんな発想俺にはなかったな…」
 タクロウが亜衣の肩に手を乗せた。
「楽しみにしてるよ。亜衣が進化させたデンプシーロールを見るのを」
「うん、それで絶対に世界チャンピオンになるから」
 しばらくしてタクロウが立ち止まった。数歩先に出た亜衣も立ち止まり振り返った。
「なぁ…俺もジムを止めて亜衣のトレーナーをやろうと考えてる。また一緒に目指すか、世界」
「ありがとう」
 亜衣はにこっと笑った。
「でも、お兄ちゃんはジムを止めちゃダメだよ」
「あっ…」
「あたしはわがままで止めたけど、あたしはボクサーだからいいの。お兄ちゃんはトレーナーでしょ」
「えっあぁ…」
「トレーナーがわがままで止めちゃ選手は誰もついてこなくなるでしょ。あたしだってそんなお兄ちゃんに教わりたくないもん」
 タクロウが下を向いて髪の毛をまさぐった。首を左右に何度も振る。
「まさか、亜衣に諭されるとはな…」
「あたしはもう十分だから」
 亜衣は一人でまた先に進み始めた。
「あっ…?何がだよ」
「そりゃいろいろとでしょ」
 そう言って亜衣は笑みを浮かべた。
「ぜんぜん分かんねえよ」
 タクロウも苦笑いを浮かべる。タクロウも亜衣の後を追って進んだ。
 亜衣は空を見上げた。綺麗な青空に出ている太陽の光を受けて、亜衣は両手を腰の後ろでつないで背筋を伸ばした。もう一度心地よさそうに笑みを浮かべる。
 あたしはもう十分。あたしにはお兄ちゃんから継いだ技があるから。そして、試合で送ってくれた声。兄はいつだってあたしを思ってくれている。
 そう、それで十分なのだ。

おわり
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