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「だから少女はリングに立った」 2010年初掲載

初めてプロのボクシングのリングに上がる10代の少女の物語。

 周りにいるのは強くて怖そうなお姉さんたち。左前にはおでこが全開で見えるほどの短髪で板前という職業が似合いそうないなせなお姉さん。密やかに話しかけるトレーナーにはきはきと返事をしている。気合十分。正面奥にはドレッドヘアがよく似合う美しいお姉さん。壁を背にし、両手を組み目を瞑っている。絵になるその様からは風格さえ漂う。
 エネルギーが溢れ出ていたり体に蓄えたりと、大小差はあれど、闘う者のオーラというものがお姉さんたちからは感じられる。
そんな控室の光景を目にし、あたしの中で広がる場違い感。萎縮に勝てず、肩が縮こまる一方。
 あたしがボクサーという人種になりきれていないから?
 今日がデビュー戦、初めて待機する控室。何をしていいのかもよくわからず、長椅子に座り、伏した目を時々あげ、周囲の様子をちらちら見ては、また伏し目に戻る。
 落ち着いていないって思いながらも、じっとしているのもたまらない。かといって体を動かす大胆な行動にも出れず、ただ座る。バンテージの巻かれた左の手の甲を右の掌でさする。手持無沙汰ゆえの行動だと分かっていても止まらない。落ち着かないようで落ち着くから。場の雰囲気、緊張に呑まれないようにあたしは必至なのだ。
 そのせわしなく動かしているあたしの右手が掴まれた。
 白髪は薄く、顔はしわしわながらも目は活き活き。齢65を越えてなお元気なおじいちゃんこと、次藤会長の手だ。優しい目をして会長は言った。
 「そろそろ出番。グローブをはめよう」
 あたしは「はい」と頷く。出たのは小さな声。緊張もあってびっくりするくらいに。
 「心堂さん、4Rはあっという間。相手の出方を見ていてはダメ。常に先に先にを心がけて」
 「はい」とあたしは小さな声で首を縦に振り、返事をした。
 「大丈夫。練習で教えてきたことをやれば勝てる。心堂さん、熱心に練習してきた。大丈夫、自信を持って」
 あたしとは違い力強い声。教えてきたことに自信がある。といった強さ。
 あたしなんかよりはるかにボクシングを愛していて、はるかにどうしたら今日の試合に勝てるか考えている。
 その熱量にはただただ尊敬の念を抱く。考えてもどうすべきか答えを出すことさえできないあたしは、すぐに考えるのを放棄して会長に依存しがちだ。
 今日も素直に会長の指示を守ると決めている。自分を信じるよりも会長を信じた方がよっぽど勝てる確率が上がるという思いがあって。
 会長はグローブをはめた両拳を両手で掴み「できたよ」と言って放した。
 あたしは、グローブに視線をやった。
 甲の位置にウイニングのロゴが入った赤いボクシンググローブは、いつも使っているグローブより一回り小さかった。頭はヘッドギアをしていない。この拳で殴られたらどれだけ効くのだろう。想像できないけど、スパーで経験したことのない衝撃を覚悟しなきゃ。
 グローブをはめたことで、試合をするんだという実感が少しずつ湧いてきた。
 話したこともない相手と殴り合う。痛いのは嫌だし怖いからできれば避けていたいのだけれど、だからこそあたしは今日という日を臨んだ。
 プロボクサーになって、プロのリングに立つ。小さなころからの夢だったわけではないし、チャンピオンを目指しているわけでもない。 
 もっとちっぽけな動機。
 闘う人間になりたい。それだけなんだ、あたしがボクサーを目指した理由って。 

 中学3年生の時――――。
 「明日からユカのこと無視ね」
 あたしとユキコとケイを呼んだサクラはそう言ったのだ。サクラの周りにはあたしらの他に2人の取り巻きがいた。
 動揺しながら、あたしは「なんで・・」と聞いた。
 「ウザいから。存在が迷惑だから」
 理知的とはかけ離れた理由を出され、あたしは言葉を失った。サクラはうっすらと右の口元を吊り上げていた。取り巻きの子も誘われるように微笑を浮かべていた。クラスの中にはいくつかのグループがある。その中でサクラのグループは最上位にいた。つまり、グループのリーダーであるサクラは、クラスの中心人物でもあったのだ。サクラのグループよりも下のあたしらグループは逆らわないと分かっているから彼女たちは余裕なのだ。
「あんたらだって思ってんでしょ。ユカはウザいって」
 あたしは息をのんだ。さらに動揺が増しているとわかった。心の中を見透かされた心持ちの悪さに襲われている。
 ユカがうざいって思ったことは何度もある。昨日だって思ったよ。数学のテストが65点という微妙な点数で顔をしかめてたあたしの前で「あたしは85点だったよ」って言ったユカに。そんなプチ自慢言うなってあたしは腹を立てた。
 彼女にはちょっと偉そうで、調子良くて、押しつけがましくて空気読めないところがある。でも、面倒見が良かったり人を楽しませようとしたり、良い面だってあるんだ。
 だから、あたしには無視なんてできない。
 動揺しながらも自分の気持ちを確認できたけど、口がとても重く感じられた。言ったら、あたしも無視されるのだと思うととても口に出せない。
「わかった」
 ユキコが小さな声でぼつりと言った。ケイも黙って頷いた。2人の反応を見て、あたしは途端に虚しくなった。
 2人ともユカがうざいって思ってるの? それとも、同意したくないけど同意したの? ユカはグループの仲間でしょ?
 心の中で、想いが錯綜する。
「そういうことだから。一言も話しかけないでね」
 サクラの言葉で話は終わった。あたしは何も言えずに席へ戻った。
 翌日からイジメは実行された。
 朝、学校に来て元気の良い挨拶をしても誰も反応しない。隣の子に声をかけても反応をしない。異変を感じた彼女は不自然なくらい明るい声でユキコに話かけたが反応は同じだった。彼女は無言で席を立った。
 それからあたしの方に視線を向けてきて、心臓が跳ね上がるような思いをした。あたしは視線を逸らしてしまった。下を向けながらちらっと見た彼女の表情からは、困惑と動揺の色がうかがえた。そんな彼女の前にサクラが立つ。サクラはにたっと微笑を浮かべて言った。
 「あんた、今日からハブだから」
 イジメの宣戦布告。
「ユカちゃんかわいそう~」
 と笑いながら同調する取り巻きのトウコ。
 嫌な空気。嫌な空気。嫌な・・・
 胃が圧迫されるようで気持ち悪くなる。
 とてもじゃないけど、あたしは口出せない。
 結果として、あたしはサクラの命令に従っていた。
 あたしはユカを意図的に避け、ユカからも何も言ってこなかった。なんで無視するのって聞いてもいいのにって思った。でもしてこなかったのは、ユカのプライドがそうさせたからにちがいない。
 イジメは時間が経てば終わるかなって思ったけど、2か月経っても続いていた。やがてユカは学校に来なくなり、3年への進級と同時に彼女は転校した。
 それがイジメの結末。
 この件であたしは、自分が闘わない人間なんだって痛感した。
 友達が苛められているのに抵抗することおろか、ユカに声をかけることもしない弱い人間なのだ。
 そんな自分が嫌になった。幻滅した。
 クラスメートとは別の高校に進学したけれど、鬱鬱とした思いは消えなった。
 ユカのことがあってから、群れとかそういうのが嫌になったけど、だからって一人でいられる強さも持ち合わせていない。中学の時と同じように、格が真ん中くらいのグループに入って、異質な存在にならないよう似たような制服の着こなしをして個性を無くして、中身のないおしゃべりをして一日を終えていく。またクラス一同という規模でのイジメが始まるんじゃないかっていう一抹の不安をひきずりながら。学校という社会の縮図の中で、あたしは生きる虚しさに苛まされていた。
 そんなとき出会ったのが「はじめの一歩」という漫画だった。
 いじめられっ子だった主人公がプロボクサーになる話だ。

 強いってどんなだろう?

 クラスメートにいじめられていた物語の主人公は、伝説のボクサーの試合映像を見て、ぽつりとそうつぶやいた。
 そのシーンがあたしにはとても印象に残った。
 あたしは弱い人間だ。強くなれば闘う人間になれるかな。
 闘わない人間だったなら、闘う人間になればいい。
 過酷なトレーニング、減量。そして、相手との殴り合い。
 ストイックな世界。
 ストイックって良い響き。そうか、あたしに足りないのはストイックか。
 ボクシングでストイックになり、闘う人間になる。
 と思った瞬間、心のもやもやが少しだけ晴れた。希望が見えたからなのかなとあたしは思った。
 次の日には、ボクシングジムに入門し、放課後毎日通って練習した。黙々とサンドバッグを叩いたり、縄跳びしたり、時にはスパーリングさせてもらったり。
 あたしは運動が得意な方ではないし、練習からくる疲労は半端なく嫌になりかけた時期もあったけど、強くなれるのならと思うと頑張れた。
 日に日に肉体は逞しくなり、打ち込めるものが出来て、心も落ち着きを取り戻した。そういった面ではボクシングは効果があったのかなって思っていた。 
 少しずつ築き上げた自信を打ち崩されたのは、高校2年の夏だ。
 「今日からトモコのこと無視ね」
 あたしたちグループの前に来たサナエが言った。2年B組の頂点に君臨する女。
 心臓が跳ね上がった。胃が圧迫される感覚を受け、息苦しくなった。
 トモコはあたしのグループの仲間だ。特別に仲がいいわけでも、自分のグループに愛着があるわけでもないけど、トモコは仲間なのだ。
 トモコは仲間だから無視したくない。
 前に体験した状況だからもあってあたしの意思ははっきりしていたのに、サナエの顔を見ると、あたしは言葉に出せなかった。
 嫌だよ。
 その一言すら言えなかった。
 イジメの対象になった子がどんな悲惨な目に合うのかを知っているあたしは、イジメの対象になるような行為を進んで出来なかった。
 あたしはなにも反応しないままだったけど、グループの他の子は黙って頷き、サナエと取り巻きは満足して席に戻った。
 何も言えなかった。
 その事実はあたしの心を急激に蝕んだ。
 あたしはちっとも強くなっていなかった。中学時代と何も変わりはしない闘わない人間のままだったのだ。
 ボクシングをすれば闘う人間になれる。あたしの考えは間違っていたのかな。
 身の入らないまま練習をしていたあたしの隣で大きな打撃音が響いた。
 八重樫さんだ。プロでたしか十回戦の日本ランカー。ジムで一番の出世頭だとか。
 夏だっていうのに、厚め生地の長袖トレーニングスーツを着て、頭をパーカーで覆っている。
 減量中の姿を見て、試合がもうすぐだってことを思い出した。
 暑苦しい恰好で汗びっしょりになりながら一心不乱にサンドバッグを打ち込む八重樫さんの姿が気になり、あたしはサンドバッグを叩きながらもちらちらと視線を向けた。
 何やってんだあたしは・・・。
 練習が終わって、あたしは散々迷った末に八重樫さんに話しかけた。
「練習量、ものすごいですね」
 「もうすぐ試合だからね」
 「八重樫さん、試合をしたら・・何か変わりました?」
 「変わったって?」
 「気持ちとか」
 「意識したことないからなぁ。勝てばうれしいし、負けたら悔しいし。あとは、勝ったら俺って強いとか、負けたら弱ぇぇとか。そんなことくらいかなぁ」
 勝てば強い。負けたら弱い。
 単純に考えるとそうなんだろうけど、でも、人間の強さって試合の勝敗で図れるものではないって思う。
 「窓音ちゃん、試合したいの?」
 あたしが試合?
 考えもしなかった。ジムに通ってまだ一年。まだまだ初心者の域は出てないし、学生だし、それに────女だし。
 八重樫さんの顔をもう一度見た。
 減量でやつれた頬。左のこめかみあたりには絆創膏。一週間後の試合に備えて、激しく自分を追い込むストイックな姿。
 あたしに全然足りていないもの。
 あたしはストイックを求めていたのに、いつのまにか体を鍛え上げることだけで満足していた。
 「プロのリングに上がりたいです」
 天井を見上げながらあたしは言った。
 口にしてもやっぱり遠い世界のように感じた。
 
 次藤会長が3段目のロープを足で抑え広がった2段目のロープとの間を、あたしはくぐりリングの中に入った。初めて見渡すリング上からの風景。四方八方からの観客の視線が否応にも目に入る。見られているのだと思うと体がますます硬くなっていく。
 あたしは一旦目を閉じた。落ち着けと何度も言い聞かす。
 観客と闘うわけじゃないんだ。
 あたしは対角線上の青コーナーに立つ少女、城戸舞に目をやった。
 あたしと同様に、スポーツブラにトランクス、両拳にはボクシンググローブをつけている。まだ顔にはあどけなさが残る。彼女は、あたしと同じく女子高生。
 だから、この試合はお互いがデビュー戦だというのに注目を集めることになった。試合前には新聞社とかマスコミから取材を受けたし、いくつかのスポーツニュースサイトで記事を見ることができた。女子高生ボクサー対決実現や、女子高生ボクサーがデビュー戦に挑むといった内容だった。あたしと城戸舞の経歴が書かれていたけれど、あたしの方は、三、四行程度で、城戸舞の方に十行以上費やされている。城戸舞が主役といったスタンスで、あたしは添え物程度な扱い。でも、特に不満はなかった。むしろ納得。
 あたしは、孤児院で育てられたとか、元プロボクサーの父親の夢を果たすためといったドラマチックとは程遠い平凡な人生を送ってきた女子高生、インタビューでも「がんばります」とか無難なことしか言わなかった。「闘う人間になりたいです」って言っても伝わりづらいでしょ。一方で、城戸舞の経歴には厚みがあった。
 格闘技が好きで中学一年生でボクシングジムに入門。トレーニングに打ち込む一方で、サッカー選手としてもU-15に召集されるほどの活躍をしていた。でも、高校一年の時にプロボクサーになると決意した彼女は、ジムの会長から「どちらか一つに」と迫られ、ボクシングを選んだ。
 プロになったいきさつを目にして、あたしは彼女ってすごいって思った。女子サッカーの方がなでしこジャパンって騒がれているように世間への認知度ははるかに高い。しかも、ボクシングは顔や頭に傷、ダメージを受けるのを厭わない競技。それなのに彼女はボクシングを選んだのだ。それだけボクシングへの思いは半端ないんだって感じる。「KOで勝つ」「目標は世界チャンピオン」。強気な意気込みが記事には並んでいたけど、彼女にはそれを言うだけの資格がある。あたしなんかと志が全然違う。でも、あたしは勝ちをあきらめているわけじゃない。あたしに勝機があるとしたら、次藤会長という名トレーナーの存在だ。何をしても長続きしなかったあたしがボクシングだけは一年以上続けられているのも、次藤会長がこのスポーツの魅力を奥深く伝えてくれたからにほかならない。そういう体験から出来たのがトレーナーこそが何より大切なのだという持論。だからあたしはこの試合に勝てると信じている。
 レフェリーに呼ばれ、リング中央で城戸舞と顔を合わせた。一歩出せばおでこがぶつかるくらいの距離。こみ上げてくるのは、闘いの場に来たんだという実感。視線を下に向けて目線が合わないようにしているのに、それでも上がる一方。緊張は今、ピークに達しているかも。
 レフェリーの言っていることが耳を素通りする。
 コーナーに戻ると、次藤会長が「4Rはあっという間。見ていてはだめ。ジャブで先に先に手を出して」と改めて指示を伝える。控室の時と同じ内容だけど、緊張のあまり、何も考えらなくなっていたから、すごく助かる。
 次藤会長の手でマウスピースをはめてもらい、少しのずれを自分でグローブで上唇の上から調整した。
 あとはゴングが鳴るのを待つだけだ。
 カーン!
 試合開始。
 城戸舞がゆっくりとステップを刻み、コーナーを出てきた。
 口を真一文字に結び、表情が硬い。サッカーU-15に選ばれたほどの彼女でも緊張しているんだというのが伝わってくる。
“常に先にを心がけて”
 次藤会長の言葉を守り、あたしは先に左ジャブを出した。城戸舞は後ろに下がり、パンチは空振りに終わる。
 あたしは距離を詰め、もう一度左ジャブを打つ。
 バシィッ!!
 顔を跳ね上げられたのは、あたしの方だった。
 ジンと痛む鼻先をさすりたい欲求に駆られながらも、左ジャブを打つ。
 先に先にというアドバイスを忠実に守るために。守れば勝てるのだと次藤会長の言葉を信じて。
 バシィッ!!
 またしても、決まったのは城戸舞の左ジャブだ。
 あたしは足を止めた。
 もう一度左ジャブを打つべきか、一度距離を取って様子を見るべきか、迷いが生じていた。
 それがいけなかった。
 城戸舞の右ストレートがあたしの顎を打ち抜いた。
 二、三歩後退してあたしは踏みとどまった。
 ダメージはあまりない。けれど、あたしの心はひどく動揺していた。
 先に城戸舞が左ジャブを放ち、我に返ったようにあたしも、先に手を出さなきゃと左ジャブを出した。
 あたしは左ジャブにこだわり、城戸舞もデビュー戦だからなのか、左ジャブをばかり打つ。
 左ジャブの応酬。
 でも、あたしのパンチはまるで当たらず、城戸舞の左ジャブだけがあたしの顔面を捉えるのだった。
 城戸舞の左ジャブが当たるたび、ダメージと焦燥が刻み込まれる。
 なんであたしのパンチは当たらないの・・・
 第1R終了のゴングが鳴った。
 左ジャブの刺し合いにことごとく負けたあたしの心は、早くも折れかけていた。
 インターバルで次藤会長は、「落ち着いて」と何度も繰り返した。「まだ試合は始まったばかり、大丈夫」。落ち着いていて力強い次藤会長の声を聞き、あたしの心は少し落ち着きを取り戻した。
「1発で終わらないで続けて左ジャブを出して」という次藤会長の指示にあたしは、「はい」と返事をした。
 第2Rが始まる。 
“続けて、続けて“
 「先に先に」からあたしの頭の中は塗り替えられる。
 左ジャブを連続して放つ。
 城戸舞のボクシングにも変化が表れた。ステップを刻み、足を使い始めたのだ。どんなに左ジャブを打とうが、城戸舞の軽やかなステップにあたしのパンチをかわされ、まったく当たらなかった。
 そして、空振りのすきをついて、城戸舞の左ジャブがあたしの顔面を突き刺す。城戸舞のボクシングは左ジャブだけに留まらなくなり、左の連打から右ストレートが放たれる。そのうち何発かは、あたしの顔面にクリーンヒットした。
 城戸舞がボクシングのレベルを上げていく一方で、あたしは左ジャブの空振りを続けていた。
 差が広がる一方だった。
 状況はさらに悪化の道をたどる。左ジャブの空振りで疲労が溜まり、だんだんと息をするのがしんどくなってきていたのだ。
 あたしの足と手が止まる。そんなあたしの周りを城戸舞は軽やかにステップで周る。硬かった城戸舞の表情に変化が出ていた。真一文字に結ばれていた唇は、両端が持ち上がり、笑みが漏れている。
 なんだ、たいしたことないじゃない。そう言いたげな表情。
 あたしはとっさにパンチを出した。右のストレート。
 耐え難かったのだ、対戦相手に舐められている現実に。
 ズドォォッ。
 鈍く重いパンチの音が響くと同時に、あたしは呻き声を漏らした。
「ぐぇぇぇっ!」
 尋常じゃない声、そして尋常じゃない苦しみ。吐き気をもよおしたくなる圧迫があたしのお腹を襲っている。
 あたしの右ストレートは空を切り、パンチをかいくぐった舞の右フックがあたしのお腹に鮮やかに決まっていた。
 体を前に屈め、両手をお腹にあてた。痛みのあまりに、お腹をかばおうと。
 闘いの最中にけっしてやってはいけない行動だと、気付いた時には手遅れだった。
 グシャァッ!!
 無防備となったあたしの顔面に城戸舞の右のパンチがめり込まれる。あたしは頭ごと体が後ろに吹き飛ばされた。
 あたしが体勢を立て直す中、城戸舞が両拳を胸元で一度合わせてから、勢いよく距離を詰めに来たのが見えた。
 殴る気に満ちた血気盛んな姿を目の当たりにし、あたしは身を屈め、両腕で顔を守った。
 相手に舐められている現実に耐えられないなんて勝ち気な心は、とうに消え去っていた。
 殴られるのが怖いのだ。
 痛めつけられるのが嫌なのだ。
 殴られるのを防ぐために、あたしはガードで亀のように体を守ることしかできなかった。
 でも、ガードの上からお構い無しにパンチはふってくる。
 無防備のお腹には何度となくパンチがめり込まれ、顔面にもガードの隙間から幾度となくパンチが打ち込まれた。
 ズドォッ!スドォッ!
 もはや、打たれるがまま、めった打ちにされていた。コーナーポストに磔にされ、パンチの連打で上下左右に顔が飛び、どうなっているのかも分からなくなったあたしは、恐怖に怯えすがりつくように城戸舞の体に抱きついた。両腕を腰に巻きつけ、顔を舞のお腹にくっつけ密着する。城戸舞の汗が顔にべとりとつく。体の蒸れた嫌な臭いが鼻腔をくすぐるが、それでもこのまま体を舞につけていたかった。
 離されたくない。もうしばらくこのままで。十秒?ううん、もっともっと・・ずっと。もう試合を止められたくたっていいくらい。
 そう思い、涙腺が緩んだ。
 惨めだ。情けないよ。やっぱりあたしは闘う人間にはなれないのだ。このままずっと逃げ続けるんだ。そんなの嫌だけど、リング上で闘うのはもっと嫌だ。
 パンチは一発も当たらない。触れることさえできない。でも彼女のパンチは当たる。左も右も。ジャブもストレートもフックも。あたしがやりたかったこと、いやそれ以上のことをあたしの体に打ち込んでくる。
 まったく相手にさせてもらえてないじゃない。
 大人と子供のような差。同じ十八才だっていうのに・・・あたしはサンドバッグのように彼女のパンチを浴び続けている。
 もう止めにしよう。インターバルになったら次藤会長に棄権するって伝える。
 その時だった。
 あたしの耳に荒い呼吸が聞こえてきたのは。深くそして速く乱れた息は、城戸舞からでている。
 レフェリーが体を離した。
 城戸舞は顔をしかめ、口をおおきくあけている。 肩で呼吸をしているのだとすぐにわかった。     
 レフェリーが試合を再開させると、城戸舞がだるそうに前に出た。
 あたしはとっさに反応していた。
 右ストレートが城戸舞の顔面にヒットした。
 衝撃が拳からあたしの体の芯にまで響いてくる。
 城戸舞の体が棒のように立ち止まっていた。あたしは距離をつめ、パンチを放った。足を止めて連打。二、三発と続けてパンチが当たる。あたしの気持ちの高揚が止まらない中、城戸舞の動きに変化が起きた。上半身が振り子のように動き始めたのだ。その途端、あたしのパンチは当たらなくなった。ことごとく空振りに終わる。二人の距離は、頭二つ分くらいしかないのに。
 なんでパンチが当たらないの!? こんなに近いのに!
 パンチを出せば出すほど、嘘だと思いたくなる。
 それでも、体力が続くかぎり、あたしはパンチを出し続けた。体力が消耗し城戸舞がパンチを打ってこない今がチャンスだと信じて。
 そして、あたしは千才一隅のチャンスを手に入れた。左のアッパーカットを避けた城戸舞の体が大きく斜め後ろに泳いだのだ。バランスを崩している彼女の顔面めがけ、あたしは右ストレートを放った。
 城戸舞が首をひねり、パンチは彼女の顔の横をとおりすぎていく。前のめりになったあたしの体を城戸舞が抱き止めた。
 あたしと城戸舞の腕と腕が絡み合う。
 密着し、あたしの耳元で先ほどのように荒い呼吸の音が聞こえてくる。
 いや、違うのだ。
 さっきとはまったく違うのだ。
 乱れた息を吐き出しているのは、あたしの方なのだ。心臓が悲鳴を上げている。酸素を入れようと口をあけっぱなしにしてめいっぱい息を入れようとする。
 とにかく、呼吸難というこの苦しみから抜け出したくて。
 そして、あたしは目にしたくないものを見てしまった。
 あたしの間近にある城戸舞の顔。
 微笑を浮かべていた。口元がにやりと釣り上がっている。
 レフェリーが割って入り、二人の体を離した。
 今、体力が底をついているのはあたしの方・・・。
 だなんて考えたくもない。
 試合が再開すると同時にあたしは、右ストレートを放った。
 思っていたよりもずっと、あたしのパンチはスピードも威力もなくなっていた。へなへなのパンチだ。そんなパンチ当たるはずがない。城戸舞の左腕でぺちんといとも簡単に弾かれた。
 大きく体勢を崩したあたしの顔面に、城戸舞の右のパンチが唸りを上げて飛んでくる。
 あたしのとはまるで違うパンチの速さ。
 グワシャァッ!!

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 重たすぎるパンチの威力。すさまじい衝撃が顔面から全身へとはしる。
 酔い始めたかのように、世界がぐにゃりと歪んで見える。
 一発のパンチであたしはグロッギーになっていた。
 力強さを取り戻した城戸舞のパンチが、あたしの顔面に次々とぶち込まれる。
 ドボォォッ!!ドボォォッ!!ドボォォッ!!
 またもコーナーポストに磔にされ、サンドバッグのように打たれるあたし。
 世界が激しく揺れ動き、自分の足で立てているのかも分からなくなってきた中、何度もあたしの顔を吹き飛ばしていくパンチの衝撃、骨の髄まで響く痛みだけがたしかなリアルだった。
 パンチの雨が止んだ。
 レフェリーが城戸舞の体を体で止めていた。それでも前に出ようとする城戸舞に体で制し、第二ラウンド終了だと言い聞かす。
 その言葉で、試合がまだ終わっていないんだってあたしは理解した。
 コーナーポストを背にしていたあたしは、体がずずずっとずり落ちていく。あたしの体を次藤会長が抱き止めた。椅子にあたしを座らせ、首を横に振った。
 「もう試合は終わり。心堂さんはよく闘った。これ以上は危険」
 あたしが望んでいた棄権を次藤会長の方から言い出した。
 でも、レフェリーの方に向かおうとした次藤会長の手を、あたしは掴んでいた。
 「まだ試合を・・したいです・・させてください・・」
 あたしの口はそう言っていた。
 自分でも信じられなかった。あんなに試合を棄権したかったのに、さんざんに殴れているのに。
 でも、続けたいとあたしは言ったのだ。
 掴んでいた右手をはなし、右拳を見つめた。
 右ストレートがクリーンヒットしたあの時の感触が忘れられないのだ。
 もう一度会心のパンチを当てたい。
 次藤会長はあたしの目をじっと見た。
 あたしはまだ続けさせてと願いながら次藤会長の目を見つめ返した。
 次藤会長はわかったと言った。
 もう一度連打されたら止めるとも。
 あたしはこくりと頷いた。

 第三ラウンドが始まり、城戸舞が静かなステップでコーナーを出てきた。
 あたしの足は、なんとか前に出た。ステップはもう無理だけど、すり足で少しずつ距離を縮めていく。
 ストレートをもう一度当てたい。あの快感をもう一度味わいたい・・・。
 そのためには左ジャブ。
 ジャブ、ジャブ・・・。
 心の中で口ずさみながらあたしは打つ。
 バシィッ!バシィッ!
 当たるのは城戸舞の左ジャブ。
 城戸舞のパンチしか当たらない。
 悔しいけどこれが現実なのだ。
 それでも、右ストレートを当てたい・・
 スドォォ!!
 城戸舞の右ストレートがあたしの顔面を打ち抜いた。鼻が燃えるように熱く痛み、上唇の上をとろっとした液体が滑り流れていく。
 鼻血が吹き出たのだと理解した次の瞬間、あたしの顔面はまたしても城戸舞の右ストレートで押し潰され、鼻血が撒き散った。
 体が吹き飛ばされる中、あたしの瞳は、ダッシュして距離を詰めに来た城戸舞の姿を捉えた。
 ロープに背中が当たったあたしは、反動で前に振られた。
 今がチャンスだと思った。
 あたしは右ストレートを放った。
 城戸舞も右のパンチを出そうとしていた。
 でも、遅い。
 あたしの方が早い。
 カウンターで当たるという期待が膨らんだ。
 ドボォォッ!
 あたしの右拳に思い描いていた感触は伝わってこなかった。逆にあの吐き気をもよおす激痛があたしのお腹をまたしても襲う。ヒットしたのは、あたしの右ストレートではなく、城戸舞の右ストレートだった。
 あたしは、信じられない光景を目にした。
 城戸舞はあたしのパンチが届く寸前、身を屈め、パンチをかわし、右ストレートの軌道を顔からボディに変えたのだ。
 城戸舞の才能を、まざまざと見せつけられた。
 そして、パンチが当たらない理由をようやく理解した。
 あたしと城戸舞では才能に差がありすぎるのだ。どんなに練習しても埋めることの出来ない歴然とした差。
 体中の力が抜け落ち、両腕を下げながらあたしの体は崩れ落ちていく。
 その中であたしは、城戸舞が次なる動作に移っていたのを目にした。
 崩れ落ちるあたしよりも低く身を屈め、その反動を利用してパンチが弧を描くように伸び上がってきた。
 あたしの顔面めがけ。
 グワシャァッッ!!
 鼻の骨がひしゃげるような鈍い音が響くほどの、激しい衝撃があたしの顔面で爆ぜた。
 あたしの体が安定感を失う。踵がキャンパスから離れ宙に浮き上がっただろうあたしの体。天井のライトで眩い宙には、あたしが吐き出したマウスピースが飛んでいた。唾液に包まれ、照明によって恍惚と光るあたしの防具・・・。あたしの意思に逆らい、どこまでも高く飛んでいく。一方で落ちていくあたしの体はロープに背中があたり、前へ跳ね飛ばされ、ごろりと仰向けにダウンした。意識が朦朧とする中、レフェリーが両腕をクロスする姿を目にし、ゴングが打ち鳴らされる音を耳にした。
 次藤会長が顔を近づけ、声をかける。次藤会長の顔が大きく映る視界の左端では、城戸舞が観客に向けてガッツポーズしていた。仰向けで倒れ意識を失いかけているあたしを気にもかけず、なお右手を上げてリング上をゆっくりと歩きまわる。自身の強さを誇示し続ける城戸舞の姿を見て、彼女を嫌悪した。今さらながら城戸舞には負けたくなかったという思いに駆られたが、そんな彼女の振る舞いに大声で名前を呼び称える観客の声援に気付き、あたしの気持ちは虚しくなるのだった。担架に乗せられたあたしは、敗者の惨めさを味わいながらリングを後にした。

 ドクターに見てもらい、異常なしと診断されたあたしは控え室でうつぶせになっていた。
 顔には白いタオルがかけられている。
 部屋にはまだ試合を控えているボクサーとセコンドが多く残っていた。視界が遮られているからわからないけど、次藤会長もまだ側であたしを見守っているはずだ。
 あたしは試合のことが頭から離れられないでいた。
 まだリング上にいるかのような興奮があたしを包んでいる。
 パンチがほとんど当たらなかったこと、コーナーでめった打ちされたこと、見せつけられた城戸舞の天賦の才、敗者として味わった惨めな思い・・
 思い出したくないことばかり。
 早く忘れてしまいたい、そのためには、もうリングに上がらなければいい。そうすれば敗者の惨めな思いを味わなくてすむ。
 あたしはボクシングに向いてないのだ。
 それに試合から逃げ出そうとしたのだ。あたしに闘う資格なんてない。
 あたしは、タオルを顔からはずと、次藤会長に言った。
「あたし・・もう試合をしないです。向いてないってわかったし・・」
「心堂さんがそう望むなら私は止めない。今日の試合、私は嬉しかった。心堂さんが棄権しようとした私を止めてくれて。ハートが伝わってきて、私は心が奮わされた。それで十分。ありがとう」
 あたしの目から涙が溢れ出る。もう止められない。あたしは嗚咽を上げて泣いた。
 一方的に殴られて負けたあたしなんかに、次藤会長だけは感謝の言葉を送ってくれたのだ。

 翌日、目覚ましが鳴り起きたあたしは、鏡で自分の顔を目にした。顔の輪郭が倍以上に膨れ上がった醜い顔が映る。重いあたしの気持ちはさらに落ちた。
 学校どうしようかな・・・。
 学校に言ったらどうしたのって絶対に聞かれる。ボクシングの試合をしたと言えば、口ですごいと言うかもしれないけど、内心ではバカにするはずだ。
 あたしは再びベッドの上に寝転んだ。
 でも目が冴えてしまい、寝られそうになかった。
 目を瞑ってもまた試合を思い返す。
 忘れるはずないか・・。
 あたしは右腕を上げて、拳を見つめた。
 右拳に伝わったあの心地好い感触、快感を忘れるはずがない。
 あたしはベッドから降りて制服に着替えた。
 あたしは闘う人間だ。
 右拳に感触が宿り続けるかぎり、あたしはそう言ってあげるのだ。
 弱気な自分に向かって。

 おわり
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小説・だから少女はリングに立った | コメント(0)
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